Latest Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

不滅なる和声の父

バッハを評したベートーヴェンのことば。

「名匠の手腕によるいかなる芸術形式の中でも、自由と確信をもって、たとえそれが鎖に繋がれていたとしても、動くということができるおそらく最高の規範であろう」(1805年に彼は「無伴奏」の初版譜を評して)

「音の組み合わせと和声とのあの無限の、汲み尽くしがたい豊かさのゆえに、彼は小川(バッハ) でなくして大海(メーア)と称すべきだ」

いちにちのうちひとつ

いちにちのうち、ひとつ
何かを愛してみようと思った。
今日は、先ほど降り始めた雨
に濡れたアスファルトの道の
黒くつややかな、
匂いたつような、
ふうけいを愛した。

雨は好きだ。
垢や埃をぬぐい去ってくれるから。
視界を曇らせてくれるから。
多くのものの目から私を遮ってくれるから。

雨は騒音をかき消し、
傘の中に人は心を閉ざす。

柔らかく優しい雨よ。
私は人を愛そうと思う。

フランスの舞曲

20170103070209c0b.jpg

2017010307014218a.jpg

1589年、ラングルの司祭がトワノ・アルボ名で出版した「オルケゾグラフィ」
ヨーロッパで初めてダンスの踊り方を説明した本。これのおかげで当時の踊りを再現できる。


カッチーニ「新しい音楽」

「拍なしで、あたかも響きの中で話すかのように…さりげなさを持って」

なぜ「読者へ」=演奏法が必要だったか

前回はインタヴォラテュラ(演奏譜)が専門家ではなく、アマチュアを念頭にしたものではなかったかということを書きましたが、「トッカータ集1」の序文に「読者へ」として、演奏法についての言及があるのも、フレスコバルディの曲を演奏したいというアマチュア演奏家の存在があったということが背景にあります。

初版の翌年に第2版が出版されたというのも、ジローラモさまの曲を弾いてみたいというファンが結構いたのではないかと想像できます。

ジローラモさまは即興の名手ですから、現代でいうと、キース・ジャレットやチック・コリアみたいだったのじゃないかと私は勝手に妄想しているのですが、たとえば、キースのケルン・コンサートの楽譜が出版されると、ファンは喜んで買ってまねして弾いてみるという、そんな感じ?

当たり前ですがキースは毎回おなじように弾くわけじゃないし、そもそもコードとモチーフくらいしか決めていないわけです。

おそらく、フレスコバルディも、今日はどの旋法でいくか、和声進行どうするか、くらいしか決めてなかったのではないかな。

で、「私の演奏スタイルを大変気に入ってくださったので出版いたします。」とマントヴァ公への献辞の中に書かれているわけです。

要するに、アマチュア演奏家のマントヴァ公およびファンのために出来るだけ、わかりやすい「インタヴォラテュラ(演奏譜)」で出版したという経緯だと思われます。
しかし、、即興のスタイルは音符だけでは表すことができず、どうしても言葉での説明が必要だったということであるようです。

では、具体的にどのような演奏指示をしているかは次回述べます。

スカルラッティ「チェンバロのための練習曲」

ap263420toc.jpg

ドメニコ・スカルラッティは唯一冊,「チェンバロのための練習曲(Essercizi per gravicembalo)」を出版したが,それはアストリア皇太子に献呈され,1738 年あるいは 1739 年初頭にロンドンで出版された。

「読者よ.貴方が素人であろうと専門家であろうと,これらの作品の中に深遠な学問を期待するのではなく,むしろ貴方をハープシコードの練達へと導く才気にあふれた芸術の戯れを期待するように.」

と作曲者自らが記している。

ドメニコ・スカルラッティの楽譜

555曲(558曲)の「ソナタ」は後半生、ポルトガル王女マリア=バルバラ(後にスペイン王妃)の教育目的で作曲された。
作品番号は「K」(カークパトリック)、または「L」(ロンゴ)で表されるが、「L」は現在では使われていない。

作品番号対応表
対応参照

日本の主な原点版楽譜
原典版楽譜

ヴェネツィア写本
ヴェネツィア写本
ベネツィア写本


ドメニコ・スカルラッティ

Domenico Scarlatti, 1685年10月26日 - 1757年7月23日
イタリアのナポリで生まれ、スペインのマドリードで没した。

Domenico_Scarlatti.jpg

・1685年に10人兄弟の6番目の子としてナポリに生まれる。
・1701年にナポリの教会付き作曲家兼オルガン奏者となる。
  ※あるときローマでヘンデルとチェンバロおよびオルガンの腕前を競いあったという逸話が伝わっている。
・1720年または1721年にリスボンに行きマリア・マグダレーナ・バルバラ王女に音楽を教える。
・1729年にマリア・バルバラがスペイン王家に嫁いだため、マドリードへ行く。ドメニコは25年ほどスペインに滞在し、5人の子どもをもうけた。
・1757年にマドリードで没す。

スカルラッティの森

フランソワ・クープランの作品

フランソワ・クープラン(クプラン、François Couperin,1668年11月10日 パリ - 1733年9月11日 同地)

第1巻 (1713年):オルドル第1番から第5番まで
第2巻 (1717年):オルドル第6番から第12番まで
第3巻 (1722年):オルドル第13番から第19番まで
第4巻 (1728年):オルドル第20番から第27番まで

『クラヴサン奏法論』(1716年)8つの前奏曲と1つのアルマンドを含む

組曲集《諸国の人々~3声合奏のソナタと組曲Les Nations - Sonades et suites de simphonies en trio 》(1726年出版)
フランス人La Française(トリオ・ソナタ「少女」にもとづく)
スペイン人L'Espagnole(トリオ・ソナタ「幻影」にもとづく)
神聖ローマ帝国の人々L'Impériale
ピエモンテ人La Piémontaise(トリオ・ソナタ「アストレ」にもとづく)

トリオ・ソナタ«Apothéoses» (1724年)
パルナッスス山もしくはコレッリ賛Le Parnasse ou l'apothéose de Corelli
比類なきリュリ氏の追憶を讃えるためのコンセールConcert en forme d'apothéose à la mémoire de l'incomparable M. de Lully

王宮のコンセールConcerts Royaux (1714年)
コンセール第1番~第4番

趣味の融合、または新しいコンセール Les Goûts réunis ou Nouveaux Concerts (1724年)
コンセール第5番~第14番
コンセール第8番《劇場風》Huitième concert "Dans le goût théatral"
コンセール第9番《アモーレ(愛神)の肖像》Neuvième concert, intitule ritratto dell'Amore

ヴィオール曲集Pièces de violes(2つの組曲、1728年)

インタヴォラテューラとは何か

フレスコバルディ「トッカータ集」の原文表記にある「intavolatura」とは何か。

「楽譜」のことなのですが、正確には「鍵盤譜を見て演奏すること」
または「鍵盤譜」そのものをさします。

写真の1がそれです。
当時、最先端の技術でかつ高価であった銅版印刷(エッチング)で作成されたものです。
5線譜ではなく、下が8線、上が6線となっています。
しかも、下の8線はヘ音記号の上にテノール記号が書かれています。

ストラーチェのパルティータをやったときに、初めてこういう楽譜を見て驚いたのですが、「鍵盤譜」とはどういうものか分ると、なるほどそうだったのか腑に落ちます。

本来は4声体(ソプラノ・アルト・テノール・バス)で書かれていた楽譜を、右手左手の2手で弾く鍵盤楽譜として書き直したものが、「鍵盤譜」だったからです。

因みに、フレスコバルディはトッカータ集は鍵盤譜で書いていますが、ファンタジア集、リチェルカーレ集などの対位法の作品については、4声体の楽譜で書いています。
写真2は「カプリッチョ」の楽譜です。
このような楽譜を「総譜」、スパルティトゥーラ Spartitura といいます。

つまり、そもそもは4声体で書くというのが、ルネサンスの作曲家にとっては当たり前のことで、かれらはもう骨の髄からの対位法人間たちだったわけです。

ト音記号、アルト記号、テノール記号、ヘ音記号の4声の「総譜」をみて、左右の手にふりわけて弾く(オルガンだと足があるけれど)という技が必要だったわけで、「ありえなーーーい!」と思うのですが、それが出来ないと音楽の専門家にはなれなかったわけです。


ということを、私はこのたび初めて気づき偉そうに書いているわけですが、もしかしたら、オルガンを勉強している人にとっては当たり前のことかもしれません。

さらに、「フーガの技法」とかをすらすら弾いてしまう、某アマコンさまとかも、当たり前のように「総譜」で弾かれているのかもしれません。


そうなのです。

バッハはフレスコバルディの「音楽の花束」という対位法の作品を筆写して勉強していたので、「フーガの技法」に、対位法の原典である「総譜」を意識的に用いたのです。

しかし、やはり「総譜」で演奏することは当時の人にとっても難しいことだったらしくて、「近頃の音楽家は総譜で弾く練習を怠っている!」とフレスコバルディ先生はお怒りになっておられます。

インタヴォラテューラに話を戻しますと、前回書きましたように、トッカータを献呈されたマントヴァ公はかなりのディレッタントで、多分演奏もされたのでしょう。
しかし、さすがに「総譜」では無理。
ということと、対位法より即興的要素が強いという作品の性格上、トッカータは「鍵盤譜」ということになったのだと思われます。

また、8線、6線にすることによって、上下の間隔を詰めることができて、節約できるということも多きな要素だったと思われます。
なにしろ、銅版印刷は高価でしたから!

ただ、譜めくりのことまではまだあまり考えて彫っていない。
縦の線がそろっていない、など決して読みやすいもではありません。

見て演奏するための楽譜というものが、体裁を整えていくのは18世紀のフランスを待たないとダメなようです。
フランソワ・クープランの楽譜がそれなんですが、そのことはいずれ書きたいと思います。

20160807221657d32.jpg


2016080722174000a.jpeg
 

Appendix

プロフィール

reijin

Author:reijin
楽を奏し、言祝ぐ人でありたいが、今は朽ち葉になっている。
twitterをやっているのは、妹の姫。

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。